先日、Documentary Nightというオフ会に参加した。
Facebookの非公開グループで、20代、30代のドキュメンタリーを制作している人達の集まりである。
主催は、NHKを中心に活動する番組制作会社テムジンのディレクターの方。
軽い気持ちで始めたら、意外と参加者が増えてしまって、、、とのこと。
時間の関係で、私は最初から3つ目までの作品しか見ることができなかったが、それぞれ、自分自身が抱える問題を解決したいということをきっかけにつくられたものであった。
そもそも、自分で映像を作りたいという時、多くのアプローチとして
1)大好きな作品や監督の真似をしてみたい
2)自分の抱えるこの苦しさをなんとかできるかもしれない
この2つが多いと思う。
1)は微笑ましい。若者の特権だと思う。故にそこ止まりである。
2)は切実である。故に普遍性を持ちえることがある。だが多くは「オナニー」で終わる。
自分が若かりしころ、再三言われたことがこの「オナニー」である。
自分が抱える苦しさを、予算をもらって番組として制作し、これを広く世に知らしめることで、自分そして自分と同じような人を救いたい、と強く考えていた。
なのでそんな企画書ばかりを提出し、上司に笑われ続けた。
自分が再三そう言われたからだろう、私はこの制作者の「オナニー」に敏感である。
だから、自分の問題を解決しようとする制作者を嫌悪してしまう。自分自身の最も恥ずかしい部分を見せつけられているように感じるからだ。
だが、この日、かつての自分のように自分の問題を映像化する人たちの作品を見て、実は自分が何も変わっていないことに気づいた。
私は今番組作りを離れ、企業から頼まれて映像を作っている。もう10年ほど経つ。
お客さんからお金をもらって、お客さんが抱える苦しさを、映像を通じで広く世に知らしめることで、お客さんやお客さんと同じような人を救うというのが仕事だと思う。
自分の苦しさから、お客さんの苦しさに転換したことで、結果として、この10年を生き延びることができた。
お客さんの抱える苦しさに共感できることが、自分の飯の種だったのである。
一方でこれはすなわち、お客さんの「オナニー」になる危険性を秘めながら仕事をしているということである。
自分の「オナニー」は恥ずかしいが、お客さんの「オナニー」は人事である。だから我慢できる。また金をもらっているからと思考停止することもできる。
罠だ。
自分の苦しさを映像化する若者の作品を見るまで、この事に気づかないかった、、、、もっと精進せねばならぬ。