その企画、その提案、本当に当事者として考えているのか?
昔、あるお医者さんにドキュメンタリー映画の企画を提案した時に、言われたことがある。
「当事者として考えてもらいたい」
またしてもテレビの癖が出てしまった…と痛感した。
第三者とか中立とかいう、いつでも逃げられる位置から物を作ろうとする態度。
放送が終わった瞬間から次のネタ探しに走る行動。
それが嫌で辞めたのに…そこから抜け出せない。
職業として映像を作っている人の作品には言い訳がある。
予算がない、時間がない、プロデューサーの意向が、クライアントの意向が、番組のカラーが、マーケティングの観点では…と言い訳のてんこ盛りであるとさえ言える。
職業として作っていない人の作品には、言いたいことがある。
でも技術がないから見づらい、わかりづらい、伝わりずらい。
伝える技術があって伝えたいことがたいしてない映像は見慣れほどあふれていて、結構楽しく見れる。
伝えたいことがあっても伝える技術がない映像は、探さないと見れないが、その多くは見るのがつらい。
両方を兼ね備えたもの、つまり、伝えたいことを最高の技術で伝えるというのが自分の目指すものだ。
ところで、伝えたいことがあるというのは、つまり当事者になるということである。
どこまで当事者になれるのか?覚悟を決めて望んでいるのか?
そんなネタと格闘することでしか成長はない。