前回に引き続き、池谷薫監督の第2作「蟻の兵隊」を見た。
今も体内に残る無数の砲弾の破片。それは“戦後も戦った日本兵”という苦い記憶を奥村 和一 ( おくむら・ わいち ) (80)に突き付ける。
かつて奥村が所属した部隊は、第2次世界大戦後も中国に残留し、中国の内戦を戦った。しかし、長い抑留生活を経て帰国した彼らを待っていたのは逃亡兵の扱
いだった。世界の戦争史上類を見ないこの“売軍行為”を、日本政府は兵士たちが志願して勝手に戦争をつづけたと見なし黙殺したのだ。
「自分たちは、なぜ残留させられたのか?」真実を明らかにするために中国に向かった奥村に、心の中に閉じ込めてきたもう一つの記憶がよみがえる。終戦間近
の昭和20年、奥村は“初年兵教育”の名の下に罪のない中国人を刺殺するよう命じられていた。やがて奥村の執念が戦後60年を過ぎて驚くべき残留の真相と
戦争の実態を暴いていく。
これは、自身戦争の被害者でもあり加害者でもある奥村が、“日本軍山西省残留問題”の真相を解明しようと孤軍奮闘する姿を追った世界初のドキュメンタリーである。
ものすごい力作だ。
情念がほとばしったシーンがこれでもかと登場する。
しかし、物語は分かりやすくは作られていない。かなりぶっきらぼうな作りである。見る者に話を理解するための負荷を強いる。
その原因は、説明が少ないないこと。
シーンの変わり目に説明がなく、そのまま現場の映像から始まる。
奥村さんが靖国神社に行くときも、裁判へ出廷するときも、中国へ行くときも、突然シーンが変わる。
状況や意図の説明の役割を果たしているのは、現場で池谷監督が奥村さんに発する質問である。
「それを聞くのか?」と思わずうなるような質問を池谷監督は執拗に繰り返す。
この質問の内容と、ときおりテロップで紹介される少ない情報が映画の物語に添うための手がかりだ。
ではなぜ、池谷監督はこの映画をそんなに分かりにくい作りにしたのか?
私が勝手に感じるのは、池谷監督が「説明」を排除したかったのだろうということ。
この映画では、監督と取材対象者は共犯関係にある。
極限の状況での人間の情念を映像化したい監督と、自分という存在を映画の中に残す他選択肢がない元日本兵が結託して、何かを作り上げようとしているのである。
2人の結びつきは強い。とても強い。
2人の結びつきが深ければ深い程、他者は排除され、入り込む余地は少なくなる。
説明とは他者のためのものだ。
だから強く結ばれた二人からすれば、それは必要かもしれないが排除したいものでもあったのかもしれない。
でも、そんな分かりにくさもまた、この映画の魅力なのである。
映画を見ていると、撮影現場での興奮がダイレクトに伝わってくる。
その経験は麻薬のようなものであろう。
もうありきたりな取材では満足できなくなり、それが仕事に影響する。
こうして監督たちはますます映画の虜になり、全てを映画に捧げる様になっていくのだろう。
ドキュメンタリーの場合、それが商業的な成功に繋がる例はとても少ない。
それでも、監督達は映画を撮る。
映画とはナニモノゾ。
繰り返しになるが、もし、この映画を見たくなったら、予め池谷さんの著書「人間を撮る」を読むことをオススメする。
私の思い込みを最後まで読んで頂き、ありがとうございました。