深夜バスの女の子 1
<深夜バスに乗ったこと、ある?>
いつもの様に唐突な質問を投げて来たのは、彼女である。
彼女、というのは私の古い友人のことだ。特筆して彼女について語ることがあるとすれば、彼女の持つ家出癖についてだろう。昔から、何かじっくりと考え事をしたい時に、彼女は私の前からこつ然と姿を消してしまった。携帯電話に連絡しても繫がらず、私はどこを探して誰に当たるべきなのか検討もつかないのでいつも困るのだ。私と彼女の関係は少し変わっていて、名前と連絡先と年齢くらいしかお互いに知らない。何処で生まれ何処で暮らし、何を学び何をしている人間なのか、正直あまり良く知らないのだ。私たちの関係を改めてみると どこか異常な気もするが、再会し楽しく話しをしている時はプロファイリングはあまり必要ないように思え、気がつくと聞くのを忘れてしまうのだ。だから、彼女が家出と称する失踪をする度に、私は小さな後悔をしている。ーどこに住んでいるのか聞いておけば良かった、と思うのだ。
こちらから質問の意図を含んだメールを彼女に送信してから、返事の無いまま数ヶ月が経っていた。
家出の他にも国内海外を好んで旅する彼女の周りには、いつも浮世離れした緩やかな時間が流れていると私は思う。身体に染み込んだ24時間のサイクルの中で、常に時計を睨みながら過ぎて行く時間を引き算しているような私にとって、彼女は 友人であるのと同時にある種の治療薬のような存在でもある。数ヶ月前にメールを送ったとき、私はとにかく、久しぶりに彼女に会いたかった。
そして、メールを送信したことをすっかり忘れた頃、何事もなかったように彼女から連絡があった。
彼女とは、新宿で再会した。
何も変わった様子もなく、私も特に何も変わったことがなかったので、私たちは少し冗談を言い合いながら珈琲を飲みに行った。私と彼女の決まり事は、珈琲だ。誘いを掛ける時はいつも同じ文章が並ぶ。
<こんにちは、元気にしていますか>
<時間があれば、珈琲でもどう?>
はじめて彼女から誘いを受けた時から、私はこのフレーズが気に入っていた。たった2行に秘められた馬鹿馬鹿しいほどのお洒落さが、なんだか可愛らしくて笑えたのだ。ある時、彼女にそう伝えると彼女も同感だと言っていた。
<世間に隠れて、フランス映画の登場人物みたいに振る舞いたい時だってあるじゃない>
彼女はそういって、恥ずかしそうに笑っていた。目を凝らすと、やっぱり彼女の周りには浮世離れした時間が見えた。
今回は、その彼女から聞いた話しを書こうと思う。
<今年はもう、4回も深夜バスに乗ったよ>
珈琲を飲むために席に着くと、開口一番、彼女はそう言った。
彼女が「もう」と一言添えているのには理由があるのだと思う。彼女が乗った深夜バスの移動距離を考えれば納得もする。平均的な20代後半の大人ならば飛行機や新幹線を選ぶであろうルートを、深夜バスにしか乗れない自分を、彼女は少し恥じているのかもしれなかった。
ふとした時の、そういった彼女の発言に、私は少し救われていることも記しておかなければならないだろう。今回の深夜バスを巡る発言のように彼女の現実的な側面を垣間見た時、私が感じるのはいつも安堵だからだ。ひたすらに崇高な、美しいヒトのように彼女を見てしまうのは私の勝手な空想で、本当は彼女も、同じ社会の中で建設的に日々を過ごしている人間であるはずだ。しかし、私の気持ちはいつも矛盾を孕んでいる。私が彼女に対して抱く憧れを含んだ美しさは、守りたい無垢であると同時に、ドロドロした現実性を持ち込み汚したくなる対象でもある。情けない事にその矛盾の発露は、私の浅ましさや皮肉っぽさなのだろう。
彼女が深夜バスに乗ったのは、まだ残暑の残る9月の初旬だったらしい。
本格的な夜になる前の東京を出発し、翌日の朝方に中国地方の左端の目的地に着いた彼女は、目的地で数日過ごした後に、行きと同じ時刻に逆のルートを辿って東京まで帰ってきたそうだ。それが彼女が今年 ”もう4回も” 乗っている深夜バスのルートだった。
私が彼女と再会したのは、彼女が東京に戻ってきた朝だった。
この時期一番安いバスチケットを購入していたので、彼女に与えられたシートは狭かったらしい。
<未だに何をするにもお金の余裕を持てない自分は、まったく計画性がない>
そう冗談めかして嘆く彼女を、私はじっと見ていた。
狭いシートは30㎝ほど後ろに倒す事が出来るが、眠りにつくためにはどうもポジショニングが難しかったと彼女は言った。浅い眠りの中を彷徨いながら真っ暗闇のバスの座席に横たわっているしかなかったらしい。そして高速道路を時速80キロ前後で走行している深夜バスの車内は、五月蝿くてたまらなかったと彼女は愚痴を零した。私も高校生の時に、田舎の祖父母の家がある広島から深夜バスに乗った事があったので、その騒音は簡単に想像が出来た。あの延々続く高速道路を走行中の騒音は、電車と電車がすれ違う時の轟音に似ているように思う。私は電車が好きだが、電車と電車がすれ違う時の突発的なあの轟音だけは、どうにも閉口してしまう。それでも、ほんの15秒程度の電車の擦れ違いならばお腹にちょっと余計に力を入れていれば、やり過ごす事が出来る。しかし、深夜バスの騒音は延々続くのだ。東京と中国地方の左端との間を、およそ13時間近く騒音と共に過ごすとなると、その疲労は想像を絶する。
彼女と同様に深夜バスでのポジショニングが下手な女の子が、反対側のシートにいたと言う。前置きが長くなったが今回の主人公は私の古い友人である ”彼女” が見た、”深夜バスにいた女の子” についての話だ。
その日、東京に戻る便はだいぶ遅れて中国地方の端っこにある集合場所に到着したらしい。集合場所にいたのは彼女と、20代前半の青年が一人。その青年は見送りのための兄弟と母親が一緒だったが、彼女はもちろん一人だった。バスが到着すると、彼女はまず車体の”腹部分”にある荷物倉庫に大きな荷物を預けた。車内に持ち込むのは必要最低限の貴重品くらいの方が良いのだと、彼女はベテラン風情で私に言った。そして彼女が車内に乗り込もうとすると、車体の左前方にある入り口付近で、ワイシャツの襟が縒れて疲れた顔をしたバスの運転手に「あんたの席は隣の人がいないようにしておいたからな」とツッケンドンに言われたらしい。位置を説明すると、5席が連なったバス最後尾の右端という席が彼女に用意されたシートという訳だ。
<右側は窓だ、右半身だけは誰の視線も気にせず身体をノビノビ出来る>
彼女はまず真っ先に、そう思ったらしい。しかし、反面、
<なんで運転手さんは「お前には気を使ってやったんだからな」と明ら様に恩を押し付けて来たのだろうか>
<数ヶ月前も、同じバス会社を使ったから、何かの理由でブラックリストに乗ったのだろうか>
彼女は、多少怯えもしたと言う。突発的な暴言に対し要らぬことをアレコレと考えてしまうのが彼女の常だった。
<サービス精神とは何だろうか>
そう思いつつも、隣のシートには誰も座らないという事実のおかげで、ほんの10秒ほどでバスの運転手の暴力的な発言を忘れることに成功したとも彼女は語った。
そして、彼女が自分のシートに座ると、反対側には件の深夜バスの女の子が既に座っていた。
ー次回につづく